インターネットを使い始めた頃、私はよく個人サイトを見ていました。
そこには、専門家でも有名人でもない普通の人が、たくさんの自分の考えや経験を残していました。
正しい情報ではなかったのかもしれませんが、どこか憧れがあったのです。
「いつか自分も、こんなふうに経験や考えを残してみたい」
と思い、今にいたります。
ちいのここまでが長かったのです
なぜ発信したかったのか
個人ホームページへの憧れ
私は30年近く前からインターネットを使用していました。
そのときに、よく見ていたものがありました。
それは、どこかの誰かの個人サイトです。
今に比べると情報の精度はどこか怪しく、「正しい情報」というより「自分の感想」や「経験に基づいた意見」のようなものが多かったように思います。
しかし、私はそれが楽しかったのです。
自分と同じように悩んでいたり、考えていたり、試行錯誤したり、その結果自分の経験や考え方を残す。
それを見るのがどこか楽しかったのです。
身近な誰かの頭の中をのぞいているような、ちょっと自分より先をいっている大人の考え方を垣間見ているような感じ。
私もやってみたいなとどこかで思っていました。
自分の考えを残したかった
自分がどう感じているか?どう考えているか?その結果どう行動したか?
これを、どこかに残しておきたかったという気持ちもありました。
なぜなら、先ほど言った個人サイトの方々達は、このようなことをたくさん残していました。
そしてそれが、まだ10代の自分に響いたのです。
それも「すごい!」ではなく、「こんな人もいんるんだな、おもしろい」という形で。
これであれば自分の経験もどこかで誰かのためになるのでは?
そう思っていたため、「自分の考えや経験を残してみたい」と思っていました。
次は自分の番かもしれないと。(大げさ)
でも「誰が見るんだろう」と思っていた
一方で、いざ始めたところで「誰か見るのだろうか?」という思いもありました。
日常というのは、忙しいのです。
その中で、誰にも見られない・反応がないようなことをずっと続けられるだろうか…と。
このときは、記録というよりかは「誰かにとって必要なものでならない」という気持ちがどこかありました。
その結果、このような気持ちは少しずつ薄れていき、約30年後の今まで「発信」することにいたらなかったのです。
発信することへの不安
誰かに読まれる怖さ
「自分の考えや経験を残したい」
という思いがありましたが、一方では
「誰かに見られたらどう思われるだろう」
という怖さもありました。
自分で自分の経験に価値がなかったと思ってなかったわけではないのです。
悩んだり、考えたり、いろんな経験をしたり、その結果行動してきたこと、または行動してこなかったこと。
自分の中では、どれも捨ててよかった、またはなくてよかった経験ではないのです。
しかし、それを外に出して誰でも見れる場所に置いた結果、「バカにされたらどうしよう」「評価されなかったらどうしよう」「ムダな時間と言われたらどうしよう」
このように思わるんじゃないかと思いました。
それが仮に、自分の目や耳に届いた場合、「耐えられるのかな…」という怖さがありました。
自分が大事にしてきたものを否定されるのって、少し怖いですよね。
大した経験ではないのではないか・もっとすごい人がいるのではないか
世の中にはたくさんの人がいるので、「自分の経験というのは発信するほどのものではないのではないか」という思いもありました。
私は音楽をやっていますが、もっと上手な人はたくさんいます。(本当にたくさんいる)
資格も持っていますが、難関な資格を持っているわけではない。
仕事もしていますが、よくある中小企業勤め。
もっと「すごい経験」や「すごい実績」がある人がすればいいんではないかと。
そう思い、なかなか発信することができていなかったのです。
でも発信している人も最初は何者でもなかった
どこかで「みんなそうではないか」と思ってはいたのです。
例えば、私は今何者でもありません。
しかし、仮に10年後にすごい人になったとします(すごく抽象的ですが)
「すごい人になった10年後から何かを始めた」としたら「すごい人だから発信している」となると思います。
しかし、すごい人になる10年前である今の「何者でもない状態から発信していた」としたら、「何者でもないときからやっていたんだ」となるのではないでしょうか。
もちろん、「すごい人」になってから発信を始める人もいるでしょう。
しかし、大多数の人は「すごくない時期から発信」していたのではないでしょうか。
それであれば、先のことがどうなるかわからない現在の私が「発信」しても何もおかしくはないんじゃないかと思ったのです。
結果からみれば過程はよい感じに紐づくのです。
しかし、過程からみれば結果は不明確だったのです。
発信は「評価されるため」ではなかった



昔の自分へ届けたい
最初は、「誰かに認めてもらいたい」「役に立ちたい」という気持ちもありました。
なぜなら、それこそが「発信する意味」だとどこかで思っていたためです。
「自分のことを肯定してほしい」「誰かの役に立ちたい」
このような気持ちを持っている人は多いのではないかと思います(私だけでしょうか)
そのため、「発信」してこの「欲」のようなものを満たしたいと思ったのです。
しかし、続けていると「自分が経験したことを残す」「自分が考えたことを整理する」という方向にシフトしてきました。
なぜかはわかりませんが、記事などを書いているうちにどんどん自分のことを掘り下げるようになったのです。
自分の経験を言葉にしようと思うと、色んなことを思い出す必要があります。
「なぜそうしようと思ったか」「どんな悩みがあったか」「そのときの感情は」「結局どう行動したか」
などです。
そうすると、気付けば「自分の考え方」を整理していたのです。
それを整理してようやく、「自分が経験したことを残す」ということができるようになるのです。
そして、この内容こそが「当時の自分が欲していた情報」であることに気付いたのです。
そのため、「自分を肯定してほしい」や「誰かのために」というのはどこかに吹き飛びました。
同じような悩みやつまづきがある人に向けて、「この情報を置いておこう」というような気持ちが強くなったのです。
「必要だったら見つけて参考にしてくれるだろう」と。
そのためには更新も続けていく必要があるし、人が見つけやすい場所にサイトがある必要があると思っています。
これは次の課題となりそうです。(頑張ります)
誰かではなく、自分に届いていた
と、いうことで、「誰かのために」ではなく気付けば「過去の自分のために」書いているようなことが多くなりました。
過去の経験を振り返り、自分が何を大事にしていたか・意外と積み重ねてきたものがあったことに気付いてみたり。
そして、同じような人がきっとどこかにいるんだろうと。
特別じゃないからこそ書けることや届くものもあるのではないか?と。
過去の自分に届くような内容は、今どこかの誰かの参考になるのではと。
小さな反応が「存在しててもよい」につながる
そして、反応があるとどこか救われるというと大げさかもしれませんが、「存在しててもよい」というような感覚があります(これも大げさか)
今1カ月ほどブログをやっていますが、アクセスが10ぐらいありました。
その10人が「ふむふむ」と言いながら記事を読んだのか、「シュッ!」としたのかどうかはわかりません。
それでも、誰かの目にふれたというのはどこか自分の中で大きかったです。
「アクセス」があるのであれば、いずれ誰か必要とするかもしれない人に届くかもしれないと。
「自分のやったことが、どこかの誰かにつながる」
という感覚です。
これからも自分の記録として発信していく
ブログから「発信」というものをしてからまだ1カ月ほどです。
アクセスは少なく、文章も記事を書きながら練習し、動画やBGMの作成も始めたばかりです。
しかし、「またこの経験もどこかの誰かにつながるのでは」という思いがあります。
そして、「この時期にこう考えていた自分がいた」ということも未来の自分には懐かしく感じるでしょう。
まだ途中ですが、この先どんな経験が増えていくかも含めて、この場所に色々と残していきたいと思います。



オンザウェイっ










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