このブログや、最近始めた動画投稿のボタンが怖かった話です。
ちいのこれを押したら世界が変わってしまうかも…
はじめに
今は普通に投稿している
すっかり2日に1回投稿する習慣となりました。
たしかに、以前は怖さのようなものがあったのですが。
やってみると、「意外と何も変わらない」というのが経験できたので定期的な投稿が出来ています。
でも最初は本当に押せなかった
例えばブログなら、「これを書くぞ!」
と、思って書き始めます。
しかし、いざ書き上げると、「文法大丈夫かな」「この言い方トゲがないかな」「何か言われるんじゃないか」「この情報は正しいのか」
こんな感じのことが頭に巡ります。
すると、たしかに書く前と書いているときは「これを書いて誰かの役に立てば」と思っているのですが、「投稿ボタン」を押すタイミングで悩んでしまいます。
なんなら消してた
そして、「これは世の中に必要ではないかもしれない」と思って消したものも多いです。
そんなに大層な話ではないのですが。
インターネット上にはたくさんの情報があり、記事があり、体験があります。
そこに、例えば誤った情報をあげてしまったり、自分の主観が入った体験があがってしまったり。
必ずしも誰にとっても正確でためになる情報というのはないと思っています。
なので「偏っている」かもしれないけどそれも誰かにとっては必要な情報となっているかもしれない。
頭ではわかっていても、書いては消してと繰り返すことがありました。
なぜか押せない
「世の中に出る」感じがした
すでに仕事もしているので世の中に出ているのは重々承知です。
しかし、そういう意味ではないのです。
「自分の考えが世の中に出る」というのはまた特別なのです。
外面よりも内面のほうが恥ずかしいというか、繊細というか。
私の場合のデリケートレベルは、
内面 > 外面
です。
なかなかの抵抗感がありました。
一度出したら戻れない感覚
この感覚が強かったのです。
投稿するということは、誰からも見ることができる状態になるということです。(実際はしばらく0アクセスでした)
なので、投稿したら「もう以前の平穏な自分には戻れないのかもしれない」と感じていました(極端な発想)
世界には何十億人といます。
その何十億人から見られる、または値踏みされる…すごく怖いという感覚。
しかし、実際には何十億人が日本の個人サイトを見に来ることはないのです。
でも、それはそれだったのです。
投稿してみると、それがよくわかりました。(そもそもアクセスがない)
間違っていたらどうしよう
情報が違ったら?
間違ったことを書いてしまって、その間違ったことを参考にしてしまって困る人がいたらどうしよう。
こんなことをよく考えていました。
実際そういうときありますよね(どうですか)
私は書いていることや言っていることを参考にして、困ったことになったことが何度かあります。
しかし、その「困った」を経験したからこそ今気を付けている部分もあります。
知ったかぶりに見えたら?
これは得意だったので、息をするようにしてしまうときがあります(悪い癖ですね)
日常であれば、「たまに知ったかぶりするやつ」ということを知られているため「信憑性」が判断しやすいから問題ないのです。
しかし、ネット上だと「たまに知ったかぶりするやつ」ということを知られていないため、「信憑性」が判断しづらいのではないかと思いました。
私は、たまに知ったかぶりをします。(ここで伝えておきます)
変に思われるのが怖かった
「なんか始めた人」になる怖さ
始めたらひけない…というのでしょうか。
始めてしまうと、「始めたのにやらなくなった」や「始めたのに続かなくかった」という道が生まれてしまいます。
これを恐れていたような気がします。
始めなければ、この道はそもそもないのです。
そのため、怖さもないのです。
自意識の話
これが恐らく過剰でした。
ここまで悩んでいたようなことは、どれも主観的なのです。
主観的というか、自意識視点での話です。
実際は、誰も何も気にしていないのです。
誰も見てないのに見られているような感じ
でも視線のようなものを感じます(不思議)
たしかに、アクセスは0だったのです。
なんとなく、お家の中でも服を着ていなかったら恥ずかしくありませんか。
誰が見ているわけでもないのですが…
思えば、プールなどで着替えるときも人より恥ずかしがっていたような気がします。
恥ずかしがりなのかもしれません。
でも本当は見てほしかった
怖いけど投稿してみた



等価交換!
ということなのでしょう。
反応を確認するためには、一歩踏み出す必要があったのです。
完全な安全圏からは銃弾は届かないのです。
撃たれる覚悟がないと撃てないのです。
見てほしい気持ちも大きかった



自分ってどう見えてるのだろう?
こんな感情がありました。
もちろん、自分の経験や考え方が誰かの参考になれば…という思いもありました。
それよりも大きかったのは、自分はどういう人間だと「思われるのだろう」ということです。
不思議なもので、どういう人間だと「思われる」ことが怖かったのですが、同時にどういう人間だと「思われるのか」という興味もあったのです。
誰か教えてくれという気持ちでした。
投稿した後はそわそわした
アクセス確認



誰かみていないか?
投稿したら投稿したで、最初は結構確認していました。
「アクセスは0だな…よしまだ何も変わらない大丈夫だ」
「アクセスは0だな…見られたらどうなるのだろう」
この2つの気持ちがありました。
いつもより早く起きてしまったりして、確認する日々が少しありました。
再生数確認
動画も同様です。
そして、動画の方は投稿してすぐに数回ほど再生されていました。
動画の方がいいねやコメントがつくというイメージがあったので、そういうリアクションも確認していました。(こちらはまだ0です)
再生されたのは最初だけで、2日目以降に再生数は増えませんでした。
意外と何も変わらないのです。
そわそわ
早起き → ブログ見る → アクセス0
昼休み → 動画確認 → 再生数増えてない
仕事終わり → ブログ見る → アクセス0
寝る前 → 動画確認 → 再生数増えてない
早起き → ブログ見る → アクセス0….
これは、そわそわしてると言えるでしょう。
何度見ても増えてないので、なんとなく自分で1再生させてみたりしています。(雀の涙)
意外と変わらない
何もない
「昨日ポリテク記事の宣伝動画をあげていたちいのさんだ!」
なんてことはありません。
いつもの日常が翌日には待っていました。
世界は静かなものだった
恐らく、みなこうなのでしょう。
もちろん、そうじゃない人もいるのでしょう。
しかし、大多数はこうなのだと。
いつも通勤電車で一緒のあの人も、一緒に仕事をしているあの人も、私も。
誰も何をしているかなんて言わなければわからないのです。
「テレビに出た」とかならまだしも、ネットに少しお邪魔したところで世界は変わらないのです。
慣れは少しずつ
1回目より2回目
少しずつ、ハードルが下がります。
というより、1回目は壁であったような感じです。
壁を超えた先に、ハードルが並んでいたような感じです。
「登る」のと「飛ぶ」のではずいぶん違うものですね。
2回目より3回目
ハードルから次のハードルへ。
そして、気付くことがあります。
ハードルが下がっているのではなく、自分の飛ぶ能力が上がっていることに。
同じ高さのハードルがたくさんあります。
それを超えるのが簡単になっていくというか楽になっていく。
なんなら、「どんな方法で超えようか」と考えるときもあります。
壁やハードルが高いのではなく、超える能力が自分にはまだなかったのだと気づきました(30年以上かかりました)
今思うこと
ボタンが一番の壁
ここを押すまでが大変です。
それは物理的なことではなく、心理的な面です。
「こんなのじゃダメじゃないか」「こんなもの世の中に出していいのか」「誰かに迷惑をかけるのでは」「私の実力はこんなものではない」「大きく見せたい」「かっこよくみせたい」
色々色々考えてしまうのです。
技術や能力ではなく心理的なものだった
もしかすると「技術」や「能力」でいうと誰かの役に立つようなことはあったのかもしれません。
というのも、「発信する人が完璧である必要はない」ということを十分知っていました。
私は、インターネットが一般的になったときに個人サイトをよく見ていました。
そこには、自分より少しだけ優れた人の話・本当かどうかわからない話・自分より少しだけ優れた人の話・すごくダメダメな人の話などたくさんありました。
そのどれも私にとっては参考になっていました。
「正しい情報」だから参考になったのではなくて、「こんな人もいるんだな」というのがどこか安心できた思い出です。
投稿したから今ここにいます
そして、私も同じ道を歩もうとしているのかもしれません。
どこかの誰かのサイトで、安心した・参考になった・楽しめたのです。(感謝です)
次は、自分の番なのかもしれないな…というのは大げさですが、自分がもらったものを誰かに返せたらなと思います。
ということで、お会いできて嬉しいです、ゆっくりしていってください。



テイクイットイージ―










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