アクセス0が2週間ほど続きました(今は5アクセスぐらいある)
その頃に感じていたことを書き残しています。
はじめに
投稿したら変わると思っていた
ちいのよし、投稿するぞ!
ボタンを押すという一歩を踏み出したのです。
何か変わるんじゃないか、反応があるんじゃないか、非難されるんじゃないか、感謝されるんじゃないか。
こんなことを頭の中で考えていました。
でも最初は何も起こらなかった
しかし、何も変わりません。
「ブログをやっている、ちいのさんだ!」
なんて言われることはありません。
わかってはいたのですが、わかりやすく何か変わるんじゃないかと思っていました。
毎日アクセスを確認していた
朝見る
朝起きると、スマートフォンをチェックします。
アクセスが0の記事が並びます。
その中に、「1アクセスある!」と見つけるときがあります。
しかし、それは自分で記事を表示して確認したときのアクセスだったりします。(よくやってしまいます)
記事に問題なかったかを、確認して「シュッ!」と閉じます。
昼見る
昼休みになると、スマートフォンをチェックします。
アクセス0の記事が並びます。
その中に、「1アクセスある!」と複数見つけるときがあります。
これは、朝に自分が確認した記事です。
他の記事に問題なかったかを、確認して「シュッ!」と閉じます。
夜見る
仕事から帰ると、スマートフォンをチェックします。
アクセス0の記事が並びます。
その中に、「1アクセスある!」とたくさん見つけるときがあります。
これは、昼に自分が確認した記事です。(学ばない)
誰も見てなさそうだな…ということを確認して、「シュッ!」と閉じます。
変わってない
恐らく、誰の目にもふれてないのでしょう。
考えてみれば当然の話で、SNSもやっていないので見つける手段がないような。
見つかるまでに、見やすいサイトにしておきたいところです。
「誰かに見られる」が怖かった
でも実際は誰も来ない
見られることは怖かったのです。
「良い」とか「悪い」とかの評価されることが怖かったというか。
しかし、それと同じくらい「誰かに見てほしい」という気持ちがありました。
そのため、意を決して投稿ボタンを押して投稿を始めました。
しかし、実際は誰もこないのです。
それは安心でもあり少し寂しくもあった
誰もこないということは、外的要因による変化はないということです。
怖さもあった自分にとっては、これは安心材料でした。
しかし、同時に「誰も来ないのか..」という寂しさもあります。
ボタンを押した時点で、ある程度自分の中で覚悟のようなものが決まっていたのかもしれません。
「よし、こい!!」と思っていたら「誰もこない…」と肩透かしをくらったような感じです。
そのため、今は肩透かしモードとなり少し隙を見せています。
アクセス0で見えたこと
自分は特別だと思っていたのかもしれない
投稿ボタンをポンッ → アクセス大量 → 賞賛の嵐 → 自分って特別な人間だったんだ!
こんなことはないと、頭ではわかっているのです。
しかし、どこか信じきれてないところがあったのかもしれません。
自分は世間に気付かれるところにいない、または出ていないだけで特別なのかもしれない。
このような感情が恐らくあったのです。(私だけでしょうか)
認知のズレに気づいた
しかし、アクセス0の日々が続くと気付くのです。
「自分は特別ではない」
それは、これ以上ない客観的な指標として数字が物語っています。
一歩踏み出したからって、特別なご褒美があるわけではないのです。
一歩踏み出した場所はゴールではなくスタートラインなのです。
でも悪いことじゃなかった
誰にも怒られない
何も変わらない…というのも悪いことではありません。
もちろん、よい変化というのはありません。
しかし、悪い変化もないのです。
怒られることもありません。
誰にも否定されない
「こんな記事おかしい、間違っている!」
と、言われることもありません。
自分の思った通りに書けるのです。
何を書いても、好きなように書いても否定されることはありません。
静かに練習できた
ということで、誰にも急かされずに練習ができています。(ありがたい)
まさに今がそうです。
人の目にふれる前にクオリティを上げておかないといけません。
投稿をはじめたら、めまぐるしく変化に対応しないといけない!
というイメージがありましたが、そんなことはありませんでした。
とても静かな時間が流れています。
少しアクセスが来た時の感情
急に怖くなった



み、見られている!
「誰だ…?」というのが第一の感想でした。
ネットというのは広大です。
その中で、「どうやって見つけたんだろう…」という疑問がありました。
LINEやGmailなどとブログがリンクしていて、誰かが見たのか?的な謎の疑惑もよぎりました。
そして、アクセス以外は残さずに静かに帰っていってるのです(当然か)
少し怖い気持ちがありました。
同時に嬉しかった
先ほどの感想と同時に、「誰だ…?フフッ」「どうやって見つけたんだ…楽しんでくれたかな?」のような、嬉しいような気になるような気持ちもありました。
作った物を見られるというのは、怖いような恥ずかしいような気持ちもありますが、やはりどこか嬉しい気持ちもあるのです。
矛盾していた
どちらの気持ちも、同じぐらいあるのです。
自由研究の発表や展示なんかだと、「見られる怖さ」と「見てもらいたい気持ち」のどちらもありませんか。(人によるかもしれません。というか、今時自由研究ってあるのだろうか)
この感じに近いかもしれません。
と、いっても手を抜いた自由研究ではそうはなりません(私は自由研究苦手でした)
手を抜いたら、ほとんど「怒られないかな・バカにされないかな」という心配です。
記事は頑張って書いていたので、「怖さ」と「楽しみな気持ち」が混在するいい精神状態だったのかもしれません。
アクセスがないから続けられたのかもしれない
最初から人が来ていたら怖かったかも
投稿ボタンをポンッ → アクセス大量 → 賞賛の嵐 → 自分って特別な人間だったんだ!
もしこうなっていたら、すんなりは行ってなかったかもしれません。
変化というのは、急すぎると受け入れられないような気がしています。
仮に、「明日からしばらく夜勤勤務だから!」と言われて急に夜勤になったとして。
準備もできていないので、体はかなりきつく感じますよね。持たないかもしれません。
しかし、「1カ月後からしばらく夜勤勤務だから!」と言われれば、少しずつ体を慣らせますよね。
1カ月後から夜勤が始まるという心の準備。
それに向けての、時間・体の調整
1カ月後には体も慣れて、心の準備もできている。
これができれば馴染むことができるのです。
今思うこと
数字より「出した」が大きかった
「一旦出す」というのは大事なのかもしれません。
出さないと、変化への考え方・心情などに気付きませんでした。
意外にも色んな考えを持っていたようで、その考えが日々変化しているような感覚です。
それは、今までなら自分の内側に大事にもっていて「外に出すなんてとんでもない!」というような感情だったりします。(過保護)
それが、外に放たれて影響を受けて「変化している」という感じです。
アクセスなくても進んでいた
外的な要因というのは、あまり関係なかったのかもしれません。
1つの材料としての影響あるかと思いますが、それぐらいなのだと。
「誰も見てないし辞めるか」となるかと思いきや、そうでもありませんでした(この記事が最後にならなければ)
でも、大体のことってそうな気がします。
私は趣味で楽器をやっていますが、誰も見ていないけど自分が楽しいから練習をしています。
ライブの予定はありません。
しかし、練習して上手になっていく過程が楽しいのです。
見られているかどうかは関係ないのです。
それに近い感覚で、「ブログ」というものやっているのかもしれません。










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